小出三津右衛門

出典文献 漫画の資料となった文紙を掲載(一部省略)

田中一雄編 感激美談 竹荘の義人 大草神社顕彰奉賛会発行

出典の写真<中略>
 山本庄屋を失いし後は父をなくした心地して只管回向を怠らず、其の中にも庄屋の後代りをこしらえたいと百方手をつくして隣村の庄屋や、学徳優れた有能の方々にお願いも一、二年の中に辞しられ、中々後を継ぐものがありません。かくして三十四年間の中に庄屋更迭八回に及び、庄屋の居ない時も度々ありました。其の間田土村の困窮は依然として続き、今年は豊年だと言う年は巡り来ず、僅かに従来の土地を守って細々とした日々を送っていました。

 文化二年に至りて豊野、当時矢野村の小出三津右衛門、竹荘の大庄屋となるに及び、田土村も小出氏の世話を受くることになりましたので之迄の事情を話して復興のことを依頼いたしました。小出氏も最初は其の任に非ずとして断られましたが、遂に快く承諾され其の復興に努力されることになりました。其後十三年を経過して文政五年に至り如何なる天魔にみいられしか、再び竹荘一帯の大飢饉が見舞ったのであります。泣きづらに蜂とはこんな時をいうのでありましょう。此の田土村も又大飢に遭遇しもろくろく眠られず、未だ復興が充分回復していないので一層悲惨のどん底に陥り、住民は如何になり行くものか案じわずらいました。時恰も江戸時代の終り、今から二百七年前の昔、徳川十一代将軍家斉の時でありました。当時外船の渡米しきりにして内外多事を極め物情騒然としていました。

小出庄屋の奮起
 文政元年の田土村は再度の災禍に襲われて其の困窮極度に達し、一村殆んど全滅の悲運に陥りました。之が為め一人去り二人去り、だんだんと村を去って次第にあわれさびしい田土村と変って行くのでした。此の時竹荘六ヶ村の大庄屋(豊野村、岩村、貞村、田土村湯山村、有納村の六ヶ村)、小出三津右衛門地の情勢を見て、ここに然立って田土村助勢を決意し、先づ当時一橋の代官であった大草太郎右馬に田土村現状視察のことを願い出でました。大草代官はかつて明和の頃に山本嘉右衛門庄屋の直訴事件を聞いていたので之は棄て置けないと、早速竹荘に至り各地を視察し、小出庄屋は自ら案内役となり、特に田土村の惨状を説き、明和年間より引続き不遇の土地なることを語り、之れが救助のゆるがせすべからざる必要を力説嘆願せられました。時に文政二年卯の三月でありました。大草代官も小出庄屋の熱意に動かされ、且つ温情深き代官のことでありますから、其の迫せる住民の境遇に思いをはせ、一刻も猶予は出来ないと、あわれなる家庭を慰問し金一封を施こし、倉敷に帰るや土地の財産家水沢常八郎の同情にうったえ、米百を寄附せしめ、又総社の富豪井筒屋伊左衛門を動かし、之又米百を急送するよう使が飛びました。速刻救済米を背にした荷駄の長い列が・谷川沿いの山路を田土村へ田土村へとひた急ぎに急ぎました。小出三津右衛門もまた銀三十貴女を添えて米麦五百を寄贈し、田土村教済に全力を尽し以て其の困窮を救われました。之れが為め田土村民は三津右衛門の徳を神の如くに敬い貴んだのであります。田土村はかくして其の状を救われ、飢えと貧きのどん底にあった此の村にどっと歓声があがりました。村は救われたのです。陰惨な地獄のような村にも漸く夜明けが近付いたのであります。明日へ生きる希望に胸はふくらみ心ははずんで誰の顔にも明るいほほ笑みがよみがえて来ました。家々からは楽しい炊事の煙が真直に立ち上り、香ばしい御飯のいきれが戸外に迄ただよって出ます。けれども此の情の飯の一口をかみしめただけで泣き伏した老人もいました。手を合せて一心に拝んでいる人の日からは、ぽろぽろと涙が落ちています。じーんと頭のしん底に迄突き通るような、何ともいえない感激が、人々の心を強く引きしめ、魂をゆさぶり感謝の心はあふれ出して、人から人へ伝わり近隣の村々に迄拡がって行きました。
 田土村はかくして其の状を救われ・漸次旧態に復しましたが、三津右衛門は更に勤倹貯蓄の範を垂れ、各自の実行を促がしました。即ち各戸を廻りて・縄、筵、草履等を作ることをすすめ、毎夜夜業に之を製作せしめ、出来上りたるものを集めて酒津方面の豪家に売払うことを約束し、其売上代金を貯金とし、毎年利子を配付せられました。
<中略>

小出三津右衛門の倹策
 小出三津右衛門は父を佐二郎義質と称し、天明八年、豊野(古の矢野村)に生れました。幼時より慈善の心厚く、頭脳明晰、進取の気象に富み、諸事公平極めて厳格なる人でありした。平素よりよく家業に精励、勤後力行、人一倍の努力家で家人を導くに親切実に当代稀にみる人格者であります。
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 文化元年、今より百五十年前迄は小出氏の家産は衰運に傾き、加うるに家人次々と病魔に襲われ、其上火災の厄に遇いて不幸相続き困窮此上もない時代がありました。一時は如何にせんものかと思案に暮れていましたが、漸く気を取直し、大いに発憤勇気を鼓舞して、家産の回復に固い決意を示しました。
<中略>
確固たる計画のもと奮闘努力ひたすらに家運の復興に力をいたしました。其甲斐あって漸次家計の暮しもよくなり見る見る隆盛に赴き、文化二年の終りには代官所より竹荘の大庄屋を申付けられました。
<中略>